意外と知らない真実。
このようなことが起こっていたようです。
大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜した事は疑いがなかった。閉会式のミーシャの涙に象徴されるように、ソビエトの失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。
大会後、IOCのキラニン会長は退任し、サマランチが新会長となった。これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し、結果的にテレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する商業主義への傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。
自国開催のソビエトの選手には金メダル獲得が義務付けられ、他の東側諸国でも似たような状況となった。その結果、組織的なドーピングが行われ、後に多くの選手が健康被害を受ける事になったと言われている。
日本国内の影響
不本意ながら政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCはその基盤強化の必要性を痛感し、1989年に日本体育協会から独立した財団法人化が実現した。
種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。ローマオリンピックから続けた5連覇が自動的に途絶えた男子体操団体の金メダル奪回はアテネオリンピックまで待つ事になり、バレーボールは男女とも未だに金メダルの再獲得に至っていない。また、本大会から遠ざかった競技もあり、男子バスケットボールとホッケー、女子ハンドボールは30年以上出場できていない。
個人の競技者でも、4年間の目標が自分達の手の届かない理由で奪われた事への失望は大きかった。当時金メダル確実と言われた高田裕司は引退を決意し(後に復帰)、瀬古利彦や山下泰裕などは4年後を待つ事になった。この他、長崎宏子が史上最年少の11歳、夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手(冬季は稲田悦子がいる)となったが、出場はできなかった。シングルスカルの津田真男はほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、やはり出場はかなわなかった。後に、山際淳司の短編集「スローカーブを、もう一球」(「江夏の21球」が収録)で「たった一人のオリンピック」として紹介された。津田はその後、各地で開催されたレガッタの常連となった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)
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